LOGIN翌朝、辺境の空は重かった。
雪解けの湿りを抱いた灰色の雲が低く垂れ込み、砦の石壁まで鈍い色に染めている。春へ向かう季節のはずなのに、北方の天気はまだ油断を許さない。晴れたと思えば凍り、凍ったと思えば崩れる。その気まぐれさが、この地そのもののようでもあった。 レティシア・エーヴェルシュタインは、まだ日が十分に上がる前から帳面を開いていた。 昨日鉱山で見つけた裏搬出控え。 北側旧山道への流れ。 帳場の使用痕。 逃げた見張りらしき二人。 どれも一つひとつは断片だ。 だが断片のままでも、向かうべき方向だけははっきりしている。 この領地は、ただ貧しいのではない。 奪われているのだ。 しかも、奪う側が領地の衰退そのものを隠れ蓑にして。「お嬢様」 マルタが茶を置きながら、珍しく少し険しい声を出した。「今朝、倉庫の番の者が申しまして」<差出人不明の空箱が届いた翌朝、町には薄い不安が漂っていた。 誰かが大声で騒いだわけではない。 泣き出す者がいたわけでも、荷が止まったわけでもない。 井戸はいつも通り回った。 炊事場からは湯気が上がった。 北口中継場では、豆袋につける札の形を間違えないよう、ガレスが若い荷運びたちへ何度も説明していた。 それでも、人の視線は時折、帳場の方へ流れる。 白蔦会。 その名を、町の者全員が正確に知っているわけではない。 だが、差出人のない空箱が届いたこと、箱に香木の匂いが残っていたこと、そしてその箱がすぐ帳場へ運び込まれたことは、もう広まっていた。 不気味な荷だった。 中身がないからこそ、かえって怖い。 レティシア・エーヴェルシュタインは、その空気を帳場の窓越しに感じていた。 机の上には、例の空箱が置かれている。 すでに布で包み直され、箱底の傷の位置も写し取られていた。香木の残り香を逃がさないよう、ルイスが乾いた薄布を別に用意している。 ルイスは、朝から何度もその箱を見ていた。「気になりますか」 レティシアが声をかけると、彼は少し恥じたように顔を上げた。「はい。中身がないのに、こんなに重く感じる箱は初めてです」「そうね」「何も入っていないのに」「何も入っていないことに意味があるのでしょう」 ルイスは小さく息を呑んだ。 空箱は、ただ空なのではない。 “こちらは見ている”という脅し。 “証拠を持っていると思うな”という挑発。 あるいは、“箱を扱う者の側にまだ手が届く”という示威。 どれにせよ、隠せば不安は濃くなる。 だからレティ
王都外れの療養院は、静かな場所だった。 静かすぎる、とカイルは思った。 王都の中心から馬車で半刻ほど離れただけで、通りの音は薄くなり、石畳も古びる。貴族街の整えられた庭園とは違い、このあたりの木々は枝を伸ばすままに任され、壁際には冬を越した枯れ草がまだ残っていた。 療養院は、古い修道院を改装した建物だという。 白い壁はところどころ剥がれ、尖った屋根の下には小さな鐘が吊られている。かつては祈りの音を響かせていたのだろうが、今は風が吹いた時に、かすかに揺れるだけだった。 カイルは、王立書庫の下級調査員という名目で門を通された。 もちろん本当の身分は出していない。 第二王子ルシアンの近習であることも、この場では伏せている。 受付にいた年配の女は、カイルの差し出した書庫印を見るなり、少し困った顔をした。「記録確認、でございますか」「はい。三年前の療養者名簿と、外部支援記録の照合です」 嘘ではない。 ただし、本当に見たいのは名簿ではなく、一人の男だった。「ベルナール・ロック様についても確認が必要です」 その名を出した瞬間、女の目がわずかに揺れた。「ベルナール様は……ご体調が優れませんので」「面会ではありません。療養記録の確認です。必要なら、ご本人には短くお尋ねします」「ですが、あの方はヴァイスナー家より……」 そこまで言って、女は口を閉じた。 カイルは穏やかに微笑んだ。「王立書庫は、療養院の運営に干渉するために来たわけではありません。ただ、記録上の齟齬を確認したいだけです」 最近、何度も聞いた言い回しだった。 ルシアンが辺境に送った書簡にも、似たような文があった。 干渉ではない。
王立書庫の奥は、昼でも少し冷えている。 厚い石壁が外の陽気を遮り、棚に詰められた古い記録の匂いが、空気の底に沈んでいる。王城の廊下では貴族たちの靴音が響き、庭園では花が整えられ、王都は今日も何事もないような顔をしている。 だが、この書庫の奥だけは違った。 紙が、静かに過去を起こし始めていた。 第二王子ルシアンは、机の上に並んだ三つの名を見下ろしていた。 ベルナール・ロック。 ランベール香房に出入りしていた香料仲介人ベルナール。 商務院の外部筆耕係として登録されたベルナール某。 どれも同じ名を持つ。 だが、同じ人間とは限らない。 近習のカイルが、腕を組んで唸った。「三人とも怪しい、というより……三人とも少しずつ怪しいですね」「そうだな」 ルシアンは淡々と答える。「こういう時、一番面倒なのは“全員が無関係ではない”場合だ」「一人を追えば済む話ではないと」「そういうことだ」 書庫番長エルザが、横から別の帳簿を差し出した。「こちら、ランベール香房の出入り記録です。ベルナールという名の香料仲介人は、三年前に数度出入りしています。ただし、支払い記録は本人名ではなく、紹介者経由になっています」「紹介者は?」「白蔦会、とは書かれておりません。ただ、紹介印に蔦の意匠がございます」 カイルが顔をしかめる。「また蔦ですか」「蔦そのものは珍しくありません。問題は、その蔦がどこの蔦かです」 エルザは老眼鏡を直しながら、静かに言った。 ルシアンは頷く。「香木二箱の線は、その香料仲介人に繋がる可能性がある」「はい」
王都へ送る追加の書簡が整った翌朝、辺境の空は薄く曇っていた。 雨が降るほどではない。 けれど、北の山から降りてくる風に湿り気が混じり、町の者たちは誰に言われるでもなく、荷に布をかける手を少し早めていた。 そういう小さな反応が、最近のレティシアにはよく見えるようになっていた。 以前なら、雨が降ってから慌てた。 ぬかるみができてから困った。 火が消えそうになってから薪を探した。 今は違う。 降りそうだから布をかける。 ぬかるむ前に灰を寄せる。 火が弱る前に薪を乾かす。 それだけのことだ。 だが、その“それだけ”ができるようになるまで、この土地はずいぶん長く痩せていたのだろう。 レティシア・エーヴェルシュタインは、帳場の窓から北口中継場を見下ろしていた。 そこでは、朝から豆の袋が並べられている。 王都の貴族が見れば、ただの豆袋だ。 だがこの町では、今や鉱石の箱と同じくらい丁寧に扱われていた。 豆売りの女主人が、腰に手を当てて声を張る。「その袋は外行きじゃないよ。町内優先札がついてるだろ!」 荷運びの若者が慌てて袋を置き直す。「すみません!」「謝るより札を見な。札は飾りじゃないんだからね」 ヨハンが荷車の横で笑った。「豆札の見間違いで叱られる日が来るとはな」 ガレスが真面目な顔で返す。「笑うなよ。これ間違えたら、昼の汁物が薄くなる」「それは困る」「困るだろ」 二人のやり取りに、周囲から小さな笑いが起きる。 レティシアはその様子を見ながら、少しだけ口元を緩めた。 豆の町内優先制度は、まだ始まったばかりだ。
王都の朝は、辺境よりもずっと穏やかに見える。 石畳は磨かれ、通りには焼きたてのパンの匂いが流れ、貴族街の屋敷の窓には、まだ眠たげな光が差している。庭師たちは花壇の端を整え、商人たちは荷馬車を静かに動かし、王城の塔は白く霞んだ空の下で、今日も何事もないように立っていた。 だが、何事もないように見える場所ほど、紙の奥ではよく軋む。 王立書庫の奥で、第二王子ルシアンは届いた封書を前にしていた。 封蝋には、北方旧所領の代行印。 そして、封の継ぎ目には細い糸が二重にかけられている。途中で開けられた形跡はない。 近習のカイルが、控えめに言った。「辺境より、急ぎとのことです」「急ぎ、か」 ルシアンは封書を指先で撫でた。 レティシア・エーヴェルシュタインは、むやみに急がせる女ではない。 彼女の書簡は、いつも必要な分だけ鋭く、余計な感情を紙に滲ませない。 その彼女が“急ぎ”の形で送った。 ならば、中身は軽くない。「開けよう」 封を切る音が、書庫の静けさの中で小さく響いた。 中には、複数の写しが丁寧に束ねられていた。 《山羊の鈴亭》宿帳写し。 古い宿泊記録。 香木小箱二、鉱石見本箱一。 従者一名。 青脈鉱石見本送付控え。 そして、欄外に添えられた一文。 ヴァイスナー家後援案件につき、優先照合願う。 ルシアンは、その一文を読んだ瞬間、しばらく動かなかった。 カイルが声を落とす。「殿下」「……来たな」「何が、でしょう」「名前だ」 ルシアンは宿帳写しを机の上に広げた。 そこに記されていた名は、はっ
ベルナールという名は、帳場の空気を変えた。 ヴァイスナー侯爵家。 ランベール香房。 銀狐商会。 商務院。 北方旧所領。 香木の小箱と、鉱石の見本箱。 それぞれはまだ、細い糸だった。 だが《山羊の鈴亭》の宿帳に残っていたその名は、糸の結び目のように見えた。 王都の貴族本人ではない。 商人でもない。 けれど、貴族の言葉遣いを知り、夜に代官所へ出入りし、香木の箱と鉱石見本を扱う者。 調達役。 使い走り。 あるいは、表に出ない家付きの手足。 レティシア・エーヴェルシュタインは、朝の帳場で宿帳の写しを見つめていた。 ベルナール。 従者一名。 馬一頭。 小箱三。 短い記録だった。 短いからこそ、余計な言い訳がない。「ベルナールという名だけでは、王都に照会しても候補が多すぎますね」 ルイスが言った。 彼の前には、昨夜作った写しが三枚並んでいる。 一枚は宿帳の該当頁。 一枚は旧代官所の鉱石見本箱の移動控え。 一枚はランベール香房の香木請求書。「ええ。ただの名だけならね」 レティシアは頷いた。「でも、条件をつければ絞れるわ」「条件、ですか」「王都貴族家の調達役、または従僕。ヴァイスナー家かその分家筋と関係がある者。ランベール香房、あるいは香料商の荷を扱った記録がある者。北方旧所領の旧代官所へ来訪した可能性がある者」 ルイスはすぐに書き留める。「ベルナール、王都貴族家調達役、ヴァイスナー家関係、ランベール香房、北方旧所領来訪……」 ディルク・ヴァルゼンが窓際から口を開いた。「従者一名も忘れない